お家のことは既に通常運転です。お片付けだけは毎日やってきます。 | ||
初めてそれを願った頃。 机に向かったり、家の掃除をしていたり、 あまつさえ、家に必要なものを縫っていたりしていたら、 約束の日にちが近づいている事をすっかり忘れていましたかえるです。 こんばんは。 年に一度。 大体、桜の花が咲く頃にかなえなくてはならないお約束事があります。 それ以外の季節では、「それ」をかなえることはできず、 けれども、「何月何日何時どこで。」といったように日程が決まっているわけではない、 「桜が咲いたらやりましょうね」というお約束なのです。 数年前、初めてそのお約束をした時には非常に戸惑って。 「いつやればよいかわからないのに、どうやって日にちを決めるのだろう」と困って。 でも、何年も何年もそのお約束を続けていると、そのうち「ああ、そろそろだ」と 空気の柔らかさや香りなどでわかるようになってきた、そんな不思議なお約束なのです。 年にその時にしかすることが出来ないので、何週間も前から地道に準備をし、 出来ると分かった瞬間から、日常を全部捨ててしまうぐらいの幸せを感じ、 来年、出来るかどうか分かるまでは、ただただ準備をして暮らすという生活。 そんな、どうしようもなく不思議な生活をしていると、 時折、逆に日常というものが非常に「慣れすぎているものの重なりでは?」 と 思ってしまうことがあるのです。 遠い次に出来るかどうか分からないと、その対象に沢山願いをかけることはありません。 ただただ、「出来たら良いな」という柔らかな気持ちを持ったまま生活をするだけです。 にも関わらず。 日常生活上で頻繁に会う人や事柄に関しては、つい「前回はこうだったのに」と思ったり、 「あのことだから、もう少し手を抜いても良いや」と思ってしまったりしがちです。 もちろん、全てに全力投球で生活するとあっという間に疲れてしまうので、 ある程度気を抜いたり、手間を省いたりすることは大事だと思います。 でも、純粋たる相手への人としての尊敬の気持ちや行動、 事柄に対する気持ちといったものは、あんまり手を抜いたりするのはよくありません。 あんまり気を抜きすぎると、乱雑な行動にすら移行してしまいます。 あんまり頻繁に会ったり、経験したりしていると、一期一会という言葉は実感が沸きませんが、 せめて、「その人に初めて会った時のこと」「初めてそれをやってよくなった時のこと」 というのを忘れないようにしたいなぁと、仕度をしつつ思うのです。 ぎりぎりまで会えるかどうかは分からない対象ですが、 出来ると良いなと、日々支度中なのです。 かしかし。 |
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