平成14年4月2日。
 
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毎回毎回唐突で、仕方がないくらい唐突なのですが、

あきらめると受容するというのは、実は天と地ぐらいに違うのでは?
と思ったことがあります。

たとえば、とてもとても体の弱い人が居たとします。
周りから見れば、「病弱だね」という一言ですむ体です。
けれども、本人からしてみればそれはとてもコンプレックスなのです。

沢山走ってはいけない、無理をしてはいけないとひたすら言い続けられる。
人より沢山眠らなければ次の日動くことはかなわない。
努力していても、後一歩というところで体のせいで努力が出来ないという事実。

どんなにあがいてもそれから逃れることが出来ないという絶望は、心を蝕ばみます。
そのうち、「自分は何も出来ないのだ」とあきらめてしまう状況に心を追い込みます。


あきらめるよ。
という言葉をかえるは沢山聞いてきました。
それはかえる自身の時もありましたし、他の人の言葉のときもありました。
けれども、その言葉を言っているときにすがすがしい顔をしている人は誰一人として居ませんでした。

「もしかしたら出来るかもしれない、けれども迷惑がかかるから辞めるんだ」
そんな言葉が聞こえてきそうな顔を沢山見てきました。

でも、あきらめるということは、「もしかしたら出来たかもしれないのに。」という気持ちの裏返しではないか?
とかえるは最近考え始めたのです。

じゃぁ、あきらめなかったらどうだろう?
出来るだけつらくなく、自分自身のしたことをやるためにはどうすれば良いのだろう?
かえるはあきらめるのは悔しいので、あきらめない方法を考えてみました。

体が弱いのであれば、もっと期間をかけて体に負担をかけずにやってみてはどうだろう?
人より沢山眠るなら、眠る時間を確保してから物事を考えたらどうだろう?
自分の努力だけで欲しいものが手に入らなかったら、手伝ってもらうのは?

もちろん、夢かなわないものもあります。

100mを10秒で走れないという事実があるなら、
速く走れる靴を作るという点で、100mを10秒で走るという夢に参加するのはどうだろう?
かえるはそう思うのです。

自分の駄目だと思うところを、駄目と思ってあきらめず
「自分はこうだから、その点を踏まえてやってみよう」というのは、ちょっとだけ夢をあきらめなくて良いかな?
とかえるはちょっと思うのです。

事実から目をそむけても、事実は消えてなくなりません。
ならば、事実を認めてから動いても良いかなと思うのです。
 
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