平成14年7月15日。
 
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昨日からの引き続きで、本当に申し訳ないのですが、

話す強さ。
というものも、かえるはあると思っています。

ここで心理学を引き合いにしてしまうと、何だか格好がよいのですが、
何にも思いつかないので、かえる的考えです。

知った事・分かった事という事が自分の器を越えてしまうとお話をしてしまう。
けれども、それは自分の器がいかに小さいか?
受け入れる力が少ないか?という証明になってるまうことになるのでは?
とかえるは昨日こっそりと呟いてみました。

が、「話さなくてはいけない事」まで、黙っているのは果たして良い事なのでしょうか?

知った事ではなく、知りたい事を問う。
分かった事ではなく、分からないから聞く。
これはどんな場面であっても、大事な事だと思います。

知らないから、恥ずかしいから、知っているふりをした方が良いから。
そんな事であえて黙っている、という状況をかえるが目にする事がありますが、
それこそ使う言葉・態度を間違えている気がします。

知らない事に対して質問する・教えを請うことは、
まったくおかしくないと、恥ずかしくないと思うからです。

そして、もう一つ。

「自分の気持ち」というものを、人はいつも「分かってくれるから」と
なかなか言わないで済ましてしまっている気がします。

確かに、それで気持ちが通じ合う状況下であるときに、気持ちを伝える、
気持ちを聞くということは、ものすごく野暮といわれる時があります。

けれども、常にその「野暮」な状況下にあるのでしょうか?

ないからこそ、通じた瞬間がうれしいくて、そして、
そんな瞬間が滅多にないからこそ、お電話やお手紙などの通信機器が浸透しやすくて。

言葉にされてもなかなか本当か分からなくて、けれども言われた時は、
言われないときよりも幸せで。
だから、その瞬間の疑似体験を、言葉に託すのだと思っています。

にも関わらず「分かってくれる」と黙ってしまい、
けれども「人の気持ちの言葉」を欲しがりながら、人に接する。

永遠に互いに幸せになれない、何だか寂しい平行線です。

気持ちを伝える事はとても怖い事です。
もしかしたら、心から言っていることが否定されるかもしれない、
上手に言葉に出来ないかもしれない。

そんな気持ちと戦いながら、そして相手に嫌われないかと戦々恐々としながら、
気持ちを言葉にして伝える。

その葛藤があるからこそ、そんな脅えがあるからこそ、言葉が上手に伝わると
うれしいのだと思います。

なかなか言葉にならない気持ち・つたえられない気持ち。
たまには、きちんと伝えられてもいいのではないでしょうか?

たまには「気持ち」の告白も良いものです。
      
 
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