平成16年11月28日。
 
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ごそごそと片付け物をしていたら、昔提出したレポートが見つかりました。
なんだか今のかえるよりも偉そうな事を書いていたので、
こっそりと更新してみようと思ったかえるです。
こんばんは。


ここ数年ほど、ちょこちょこと色々な人間関係のお話を聞かせていただいたり、
後述で読んだり、かえる自身でも悩んだりする機会がありました。

資料を含めると大体100組ぐらいの、人間関係の悩み。

それぞれ育ってきた環境や、育んだ関係を考慮すると何も言えないのですが、
どのように育ってきても、大切な相手に対しては、
「あの人は自分のことをどう思っているのだろうか?」と思ってしまうのだなぁと、
まとめる機会がありました。

自分ではない誰かに思ってもらえるということ。

それは、両親であろうが、恋人であろうが、友達であろうが、知り合いであろうが、
とても幸せなことであると同時に、不安に叩き込まれる状態です。

いつその思いがなくなるのか。
それは相手の気持ちが薄れるのか、自分が悪いからなのか。

本当は心の根底であるはずのこれらの気持ち。
普段感じていないのは、ひとえに「忘れさって」しまっているからなのです。

無条件に愛されている事に慣れてしまっている。
と言い換えてもかまいません。

自分だからということで、無条件に許されていること。
そして、無条件に許されているからといって無意識に取ってしまっている行動。

確かに、「私はこの人に無条件に愛されている」という気持ちの中に、
「捨てられたらどうしよう?」と言うものが入っていたら、幸せにはなれませんし、
何より、人は「慣れ」てしまう生き物です。

そして、慣れてしまう以上、配慮を配慮とは思えなくなってしまい、
そのうち、配慮されているという事実を根底から忘れ去ってしまうのです。

慣れという安定と、慣れという、相手への配慮の欠如。
これは、実に恐ろしいと思います。


人は、配慮しない相手の存在は忘れてしまう生き物です。
それは、人が人ととして生きていく以上、ちょっと変わりそうにない事実です。

けれども、同時に人は考え続けることが出来る生き物です。
今思っていること、取っている行動が、「本当に正しいのか?」を
何度も推敲し、状況にあわせて変化させることも出来ます。


無条件に受け取っている配慮や愛情。
それらを当然だと受け取ってしまい続け、相手に去られてしまう前に、
たまには、「何故その人は自分に配慮を続けてくれるのか?」
といったものを考えて見るのも、良いことかもしれません。
      
 
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