愛あるこその仕業。(2002年3月20日より)
 
その道のプロと、その道に詳しい人の差はどこだろう?と考えたことがあります。

あるラインまでの知識や技術はいっしょかもしれない。
ある程度、ある年月やれば必ず手に入る知識や経験。
そんなものでは測れない何かが、「プロ」と呼ばれる人にはあるのでは?と思うのです。

かえるはお茶を淹れる事ができますし、1年の2/3は何種類もお茶を淹れているので
詳しいですか?と聞かれると、「ちょっとなら。」ということが出来ます。
かえるが飲みたいお茶の種類や入れる手順程度は説明することが出来ます。

けれども、それだけです。

お茶の産地や、製造方法、入れる手順や種類、会社別のお茶のテイスティング。
これらは、何ヶ月かお茶を飲んでいればそのうち気がつくこと、覚えること。

「どこのメーカさんの○○は、××のミルクを注ぐ前に入れるのが好き。」
「油っけのあるお料理の後は、あのメーカーさんのお茶を濃い目に入れるのが好き」

なんだかとっても偉そうに聞こえますが、所詮自分の好きなものを言っているだけ。
では、お茶を入れる対象が「ほかの人」ならどうなるでしょう?

平均的なお茶とは?
この時期に合うお茶とは?
このご飯に合うお茶とは?

かえるには、まったく答えることが出来ません。
なぜならかえるの持っている知識は「自分自身が気持ちよくなる知識」であって、
ほかの人が気持ちよくなる知識ではないからです。

でも、かえるの知っているお茶のプロは違います。
きっとプロといったらにこにこと、でも恥ずかしがる人ですが、
彼にそれを問うことが出来たら、自分の意見そして平均的意見を聞くことが出来るはずです。

自分の好きで動けるうちは、その道に詳しい人。

でも、その範囲を出来る限りすべて目を通し、味を見、
どのようなときに、どのような提供をすれば1番おいしいか?を考えられるようになれば、
そして、何よりその対象を愛することが出来るのであれば、
その道のプロと言えるのではないでしょうか?

自分の知識と意見だけでなく、平均的、統計的に意見を求め
なおかつそれをきちんと処理できて、でも自分の意見をつぶさない。

そして何より、愛を注いでいるからこそのプロなのではないかなぁ?
とかえるは思うのです。

愛するからこその行為。

プロがするその行為が幸せにつながるのは、それに注ぐ愛が深いからかもしれません。
      
 
 

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