お約束と判断(2002年9月9日より)
 
ここ数日、「お約束と公平な判断」という相変わらず不毛な事を考えていました。
どんなに色々考えても、立場、経験等から、同じモノを見ても、違うように見えるということは
8月30日の日記に描いた記憶があるのですが、

では、「公平」とはなんだろう?とふと思い立ったのです。
かえるの生きている世界では、何かあった場合、まず「お互いの言っている事」を聞く。
聞けない場合、「何故そのような事をしたであろうか?」という事を、
出来るだけ相手が悪くないという過程で想像する。

そうして、両者の言い分(もしくは、考え)という情報・意見を聞いてから、
「かえるの生きている世界ではどちらがより、社会に受け入れやすいか?」
という一点のみから、相手への感情抜きで「より正しいのはどちらか?」という事を判断してます。

とても仲の良い4人しか居ないかえる一族でさえ、そんな調子で判断が必要な事もあるのです。

では、かえる以外のコミュニティーであるのであれば、判断基準はどうなるのでしょうか?
人様存在するような、大きな社会であるなら、
その「公平(として見えるか)か否か?」は、法律・民法であったり、
もっと小さい社会であるのであれば、「それは、その社会の住人に受け入れられるか?」というのが、
「公平な判断にとなる基準に」なるのでは?とかえるは考えます。

ネットの世界においても、ある程度どこでも通用する「ネチケット」と、
そのサイト周辺でしか通用しない「ローカルルール」があるのがあるのと同じような感じです。

でも、「公平」とはいつ・どこの場合でも「公平」であるのでしょうか?
更には、その瞬間、その人の中では「公平」である事が、いつの場合、どの人にとっても公平なのでしょうか?

多分、それは違うのでは?とかえるは考えます。
かえるは、「公平」とは、その人の生きてきた経験から導かれるものだと思っていますし、
どんなにあの人は公平だと言われている人にだって、ある程度の「偏り」があって当たり前だと思っています。

そして、「人のいう公平とは「偏り」がある」というのが前提条件があり、
誰一人として、「公平」に判断していると言っている人と同じに生きていない現状がある以上、
自分を殺しての判断であっても、全力自分好みの判断であっても、それは「自分の公平な判断」であって、
真の「公平」とはいえない気がします。

このお話を展開すると、どうやっても
「人は、人が生きてきた範囲内でしか公平という判断が出来ず、しかもそれは必ずしも正解となるわけではない。」
という、相変わらず哲学な言葉でしかまとめられなくなってしまいます。

けれども、この哲学な言葉を頭に入れておいて、
自分がしている事は正義なのではなく、自分自身のエゴのもとに動いている。
と自覚して動いた方が、より、楽チンに動けると思うのです。

少なくとも、この考えで動いた方が、動いて自分の首をしめたと感じた瞬間、
他人のせいにしなくて済んで、気持ちや事態がより一層悪化しなくてよさそうですが。


・・・というかえるの「公平」さで、かえるは「公平」に生きています。
だめ?
      
 
 

Banner