平成14年8月6日。
 
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ある意味、優等生というのは、成績とか学力とかそんなものではなくて、
「周囲が貴方はこういうヒトなのだ」と決めたイメージを必死になって取り繕っている
その姿こそが優等生ではないのだろうか?と、ふと思ったのです。

小中高等学校という特殊な場では、主にモノを覚える、論理的に組み立てる、応用する。
大学になると、それを独自の理論でどう展開するか?というのが目標となりますし、
社会人なら、就職した先で求められている能力、主に「会社にどう利益を出させるか?」
というのが必要とされるのでは?と思います。

が、1日中常にその姿で居る事は、「その他の自分」というものを必要以上に否定したり、
苦痛になってしまうのでは?とかえるは思うのです。

「常に明るい」という立場を求められているなら、落ち込んで辛いという姿を出す事の恐怖を。
「落ち着いている」という立場を求められるなら、我を忘れて楽しい事をしたいという
欲求を周囲に出す事に対して、二の足を踏む。

そして、「自分を律する」という事が綺麗に出来てしまい、
周囲が求める自分でしか、自分は評価されないのでは・・・と思ってしまうと、
その「1側面」の自分以外、必要とされてはいないのだと思い込み、
その他の側面を必死で押し込み、取り繕い、必死で笑うのかなぁと、かえるは思うのです。

しかし、人は元々多面性の感情をもったイキモノです。
ヒトに認められたいと思うと同時に、認められなくても良いと、自分の道を歩きたがり、
強くなりたいと思いつつも、弱くなったときには、それをも許容されたいと願う。

けれども、「自分自身」と「周りに認められる」という両立というのはとても難しくて、
また「自分自身がそのままで居てよい」と認めるのは、もっと難しくて、

だから、せめて周りに認められようと、「周囲がほしがる自分」というのを
知らず知らずのうちに作ってしまっているのではないのかなぁ・・・。

と、「自分は、〜じゃないと駄目なんだー。」というヒトの悩み全集という
精神衛生上あんまりよろしくないものを読みつつ、考えていました。

出来たら、恋愛の悩みで悩みたいお年頃のかえるには、
ちょっとこのご本、重すぎです。
      
 
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