平成16年1月30日。
 
○
ご飯を作る体力が切れたため、今度はそれを食べてぼんやりする
という事をするようになりました。
結局、世の中上手く回っているなぁとおもったかえるです。
こんばんは。

よしながふみさんの「愛すべき娘たち」を読んでいて、
「私は(母親を)愛している。だからこそ、家を出るのだ」
という一文に妙に惹かれてしまいました。

お話の中では、大分理不尽的行為を決行していた母親ですが、
それでも、娘にとっては母親は「女」であるよりも「母親」である事を
求めていました。
「娘」にとっては「母親」は精神的に必要不可欠だったからです。
でも、その母親が「母親」としてよりも、「女」として生きるのであれば、
娘はどんなに母親を愛していてもそれでも、この家を出なくてはいけない。
何故なら、娘は母親の「女」としての行為を許せないから。
そして、それは既に「母親」ではないだから。

という、精神的離乳(母親離れ)と同時に、
「愛する事」と「許す事」は別なのだという、なかなか理解する事が出来ない事を
一文で表現した言葉だなぁ…としみじみとしてしまったのです。

「愛しているから」
その一言で、ありとあらゆる我が侭と無理を通し、
なおかつその行為すべてを許してもらえると勘違いしている人は、
世の中ちょっぴり多いです。

でも、愛している方にだって色々な事情がありますし、
どんなに愛していても、許せる事と許せない事は必ずあるのです。
それを分からず、分からないふりをしつつ「好きだから」「愛しているから」
という我が侭を通すのであれば、それは、そのうち「許してもらえない物事」
にも、そういう我が侭を通してしまうのではないか?

と、思ってしまった読書後。

自分の周りに居てくれる人たち。
「むこうは自分を愛してくれているから」と、それに安穏としていては、
やっぱり、そのうち「許してもらえない物事」にまで、我が侭を通そうと
してしまうのではないでしょうか。

早く気がつかないと。
早くフォローに入らないと、世の中そのうち大変です。

大切な人ほど、意外と我慢しているものです。
      
 
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