モノの見方と認知の仕方(2002年8月30日より)
 
唐突ですが、ここに沢山の円球があると仮定します。

上から見れば全部の円球があることは分かりますが、果たしてそれが三次元か?
という事は分からないのかもしれません。
もしかしたらそれは、円球ではなくてただの円だと仮定する事も出来るからです。
でもそこから見た場合、幾つの円があるか?という事だけは分かります。

斜めから見た場合、影が出来るので円が円球であることが分かりそうです。
二次元だと勘違いする事は、上から見るよりは少なくなると思います。
けれども、幾つの円球があるのか?という事に関しては、
もしかしたら間違っているかもしれません。
円球の向こうにもう1つか2つ、円球が隠れている可能性があるからです。

横から見た場合、円球が果たして円球なのか?そして幾つあるのか?
という事がどっちも間違っている可能性があります。

更に、思いきり愉快に考えてくださいと言われたら、
「全部大きさの違う円がある」とか、「実は、三角形の1部分だけ円くなっている」
と考える事も可能になるかもしれません。
かえるはあんまり上手にモノをかんがえられませんが、考える人が考えたら
もっと色んな「ぱっと見は円みたいだけど、実は違うもの」というものが
出てくるかもしれません。

でも、そうしたら「沢山の円球がごろりと転がっている」という実際のモノ
が見る場所、見方、考え方、によって全部違うように見えるのでは?
とお寺の石の配置を見、ついでに管理人さんにお伺いして、かえるは思ったのです。

しかし、石・円球など「動かないもの」であれば、ぐるぐると上から下から、
斜めから、真横から、ちょっとずれて横から、触ってみる等
幾つかの手段を用いれば、「正しい数・形」というものは分かるかもしれません。

では、「常に動き固まらないもの、見えないもの」が「見る対象」だったらどうなるのだろう?
とかえるは考えてみました。

「常に動くもの」の数を数えるのは、「野鳥を数える人」でさえ何となく難しそうです。
複数の方で測定して、最終的に足して割っていそうな雰囲気さえするあたり、
やっぱり「一人の見方」では信用がおけないのでは?とかえるは思います。
プロでさえ重なって見落とす事を考えるのであれば、素人は確実に見間違えても仕方なさそうです。

「見えないもの・揺れ動くもの」というものは、これはもう数えようも、
測定のしようも無いような気がします。
でも、維持でも「見よう」とするのであれば、その「見えなくて揺れ動くもの」を
見ようとする人全員の「その見えたもの」というものを言ってもらい、
少しずつすりあわせをするしかないのかなぁ?と思うのです。
一人だけの意見が絶対に正しいとは限らないし、一人だけの意見が絶対に間違っているとは
やっぱりかえるには思えないからです。

が、そのすりあわせを考える人も「その人の見方」というものが存在するわけで・・・。
そういう事を考えると、結局「常に揺れ動き、固まらないもの」というものを
意地と根性でみようとする場合、最終的には「その人が見た」と言っている言葉・気持ち
というものを信用するしかないのかなぁ・・・とかえるは思っているです。

一人の認知がおかしいと言い始めれば、それはちょっと違うと思うし、
一人の気持ちがそれはおかしいと言い始めれば、下手すれば愉快になるのは?
というのも、やっぱりかえるの「モノの見方ですよ」と言われれば、
なんとも言い返せないのでどうしようもないのですが、
こう・・・もしかして、この「モノの見方と認知の仕方」というものが一人一人違う
というのをきちんと認められたら、もうちょっとかえるは幸せになれるのかなぁ?
と思います。
      
 
 

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