終末期(2003年3月31日より)
 
世の中には、「ターミナルケア」というものが存在します。
日本語になおすと、「終末期ケア」と呼ばれているものです。

かえる的に説明してしまうと、
「既に現代医学では治す事の出来ない病気にかかった人(アンド家族)を
 死の瞬間まで、どうケア(もしくはサポート)していけば良いのか?」
 「そして、その患者さんが亡くなってしまった後、
  残された家族の悲しみというものをどうケアしていくのか?」

と言う事を、お医者さん、看護婦さん、時によっては栄養士さんまでが
よってたかって色々考えてみる。
ケアの中心はあくまで患者さん。
「お医者さん中心の医療ではなく、本人である患者さん自身が死の瞬間まで生き抜くという事」
を大切にしているものなのです。

前提が「死」というものを見据えているこの、「終末期ケア」
当然、反対意見等もあります。

「患者に死というものを突き付けるのは、むごすぎる。」
「死というものは、本来タブーなものである。」
という主旨から構成されている意見です。

確かに、一理ある意見だと思います。
けれども、「死とはタブーなものである」とし、目を背けてしまった結果、
「人」は病院や突発的な場所で死んでしまうのだと認識されがちなこの状況で、
人は少しだけ「生」という事を、見据える事が出来なくなってしまったのでは?
とかえるは思います。

人が息を引き取る瞬間。
元気だった人が、だんだんと元気を失い、そして起きられなくなっていく過程。
自分が死んでしまうと言う事を、拒絶・恐怖そして受容していく過程。

そういったモノは本人も端で見ている人も、とても辛い事だと思います。
それが、大切な人であるならばなおさらです。

それは、見なければ気が楽なこと。
大切な人が、ある日死んでしまって二度と会えなくなる。
まるで、旅にでも出かけたかのように。
そう思っていれば、良い事です。

少しずつ弱っていく。
自分は何も出来ないのだと、自分の無力さ加減を呪う。
末期の肉体的な痛みというもので、
死を受け入れなくてはいけないという精神的苦痛の中で、
変わっていく大切な人を見なくて済むのであれば。

それ以上、楽なことは無いとかえるは思います。

事実、出来るだけ治そう(治療しよう)と頑張っている
お医者さんや看護婦さんも、「既に治療する事が無い・効果が無い」
という患者さんの元には「無力感・絶望感」というものを感じてしまう為、
意識・無意識的にその方の病室に行かなくなったりする事があるそうです。

生きている人が、死に行く人を本能的に避けるとして一部では有名なこの事例、
しかし、かえるは時々不思議に思うことがあるのです。

「既に治療する事が無い」患者さんが「その人の一番大切な人」であったとしても、
お医者さんや看護婦さんは、その方のもとへ行くのを避けてしまうのでしょうか?と。

かえるは、かえるの大切な人が死んでしまうのであれば、
生の立会いは出来なかったので、
せめて死の瞬間は立会いたいと思ってしまいます。

死に行く瞬間であっても、かえるはその人はその人であると
思ってしまうからなのです。

それと同時に、家族として招き入れたもの・大切な方はなんであれ、
「最後」を看取りたいとかえるは思っています。

介護は大変だという話は良く聞きます。
事実、本当に大変だと思います。
苦しくて、辛くて、けれどもその成果は上がらなくて。
辛くて悲しい事だと思います。

けれども、最後の瞬間に、そしてその過程において
「やっぱり、大変だから辞めちゃうね」と相手に言ってしまうのは
相手が言葉がわかるわからないに関わらず、むごい事だとかえるは思います。
自分がされたくない事は、やっぱりしてはいけません。

死んでしまったら、2度と会う事は出来ません。

「嫌だから。辛いから。手間だから。むごいから。」
そう言って、逃げてしまうのは簡単です。

目を背け、耳をふさぎ、しばらく無かった事にすればよいからです。

でも、そう言ってしまった後。
相手が死んでしばらくたった後。

ふと、相手を思い出したときに後悔しないように。
思い出となった相手と、心の中でお話をしたときに辛くないように。

どんなに後悔しても、もうどうしようも無い相手です。

くいの無いように、最後まで一緒に居る事が、
元気な時から、病の最中から、そして死が訪れるその瞬間まで。

亡くなったときに、「一緒に居る事が出来て、貴方に会えてよかったです。」
と言えるほうが、かえるは幸せだと思います。

つらい事です。
けれども、楽と幸せを一緒くたに考えてはいけないとかえるは思います。

貴方は、今命ある相手を大切にしていますか?

それは、動物であっても人であっても根本的には同じだと
かえるはしみじみ思うのです。
      
 
 

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