平成14年6月26日。
 
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「自分は何も出来ない」と決め付けてしまったあまりに「今までの自分」とは、一体なんだったのだろう?
と途方にくれられた方もいらっしゃると思います。

自分なりにやってきたし、そこそこ良いと思っていたのだけど、どうやらそうではないらしい。
むしろ良くないものなのかもしれないと思ってしまった時は、誰でも悲しくなると思います。

どんな些細な事と見える事でさえ、その人の経験・考え方というものが如実に出てしまっていて、
否定されれば、自分の全人格が否定されたように思えるからです。

そしてその人格の否定という恐怖は、「自分とは何だろう?」と悩む時期に
「自分は駄目なのか?」という疑心暗鬼として強く出てくるのでは?と思います。

進路で何となく「自分とは何だろう?」と考え始めた。
昨日とふと違う顔を見せた友達の中に、「他人と違う自分」というものを感じた。
そんな些細な事からはじまる「自分と人への差」、ひいては「自分自身とは何か?」という疑問。

自分とは人はどう「違う」のか?
外見がまったく同じだとしても、中身が違えばそれは違うものだと分かっても、
では、中身はどういう比較をすればよいのか?と言う事が分からず、
「違う」と言うことが明確に分からない以上、では自分とはどうなのか?
という事が分からず途方にくれる。

でも、何となく「違う」と言う事が分かってきて、
でも違ってよいのか?という事が分からなくて、そのうち「変化していく」と言う事が
むしょうに恐くなるときがあって・・・。
そんなわけの分からない中、「きっと、頑張れば自分のなりたいものになれるかもしれない」
という希望がつぶされかける瞬間、選択を迫られた瞬間に、子どもが持っていて然るべき「全能感」を人は無くし、
「自分は出来ないのかもしれない・出来ないのだ」と絶望し、恐怖するのではないでしょうか?

でも、その一時の「選択」という過程の中で感じる絶望のせいで、
一生一緒に居なくてはいけない自分自身に嫌悪し、絶望しつづける必要はあるのでしょうか? 
自分自身というものを、今「何もできないのだ」と決め付けてしまったり、
一生「何も出来ないのだ」と劣等感に苛まれる必要性は無いと思います。

恐怖の中で「選択」しなくてはいけない時は1度ではありません。

この先なんども、「自分自身」とはなんだろう?
「今までの自分」と「今から生きていこうとする自分」というのは何だろう?
と自分の心に問われたり、社会という外側から問われる事があると思います。

それは、仕事だったり、恋愛だったり、自分のしてきた事が駄目になってしまった時と、
人様々だと思います。
でも、「問い直し」の時期でさえも、最終的に「自分とは何か?」という事を決定する内容は
今まで生きてきた自分自身の経験・感情から発生するものと思います。

「自分探し」という、その瞬間まで生きてきた全ての総決算なこの大仕事。
上手に自分を見つけられると、それまで知らなかった「大事な自分」というものと出会えるかもしれません。

明日の自分は今日の自分と経験・感情の総数が違うはずです。
たった24時間で変わってしまう、「自分」という存在。
今、一生を決めなくても、過去を総清算しなくても良いと思うのです。

人生の総決算のはいつですか?
明日なのですか?明後日なのですか?
それとも、今?

死ぬまで、誰も良いか悪いかなんて判断できません。
      
 
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