平成15年1月4日。
 
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部屋に帰ると、全力で「質問」メールが友達から来ていました。
・・・旅に出ると何故か途方に暮れる事が多いなぁと思っているかえるです。
こんばんは。

「大人になりたくないの。」
そんな言葉を時々耳にすることがあります。

どうやら、その言葉の真意というものは、
「子どもの方が楽だから。」
「汚いオトナになんか、なりたくないの」
「責任を取らないといけない状況になんか、なりたくないの。」
と言う事らしいのですが、
言われるかえるとしては、複雑だなぁと思うことがあります。

子どもである特権と、子どもであるリスク。
何をしても最終的には「子どもだから(=幼いから)」と許されると言うのは、
ある意味特権だと思いますが、それと同時に
「自分」というものを認めてもらっていないというリスクにもなりえるのだと思います。

そのヒトが満足するほどの十分な庇護と受容を受けないと、
常に「まだ欲しい」と思い、コドモで居る事に執着してしまいがちとなるのだと
「こころのお話」では「大人になりたくないヒト」のことを言うのですが、
「大人になりたくない」という人はそれでは何だか説明が付かない気がするのです。

コドモである特権を振りかざすわりには、コドモの義務を果たせない。
大人になりたくないと言うわりには、中途半端な自己決定をしたがる。

欲しかったものを欲しい欲しいというのは簡単です。
そして、それを貰うまでひたすら待つのも、ある意味簡単だと思います。
自分が動かなければ、貰うまで待てばよいのですから。

けれども、
本当に欲しいものは、きっと永遠に「貰う事」は出来ないのだとかえるは思います。

欲しいもの。
ヒトとして、見てもらう。
対等の位置にいる存在として認識してもらう。
リスクと言うものを恐れなくて良い状況となる。

そして、
一個人の人として、受け入れてもらう。

リスクを考えて動かないと言う大人もいます。
が、リスクがあると言う事(責任)を考えると言う決定はしていると思います。
大人が全部汚いというわけでもないと思います。
子どもが全部綺麗と言うわけでもないのと同じように。

そして、永遠にコドモではいけないというわけでもないと思います。
ただ、大人のほうがより色々な生き方が認められるというわけで。

けれども、十分にコドモを堪能したと思うのであれば、
自分を自分として受け入れられたいと思うのであれば、

まっすぐしか前を向けず、視野が狭いコドモで居るよりも、
いろいろな考え方が出来る自分と言うものが分かる大人になった方が、
より、大事な人に大事と言ってもらえると思うのです。

以上、
「子どもで居たく、大人になりたい」という矛盾した存在であるかえるの、
「質問」を受けての「かえるの思い」でした。
      
 
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