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大好きで大好きで、たまらずこそこそと読んでいる文章屋さんがあるのですが、
時折強い違和感にさいなまれるときがあります。
かえるも偉そうな口を叩ける立場に居ませんが、自戒を込めて思う事があるのです。
そんなこんなで、こんばんは。
凹んだときには、凹んだ日記。
楽しかったときには、楽しかった日記。
元々、日記を書くということは自分の感情を整理する事と、客観性を持たせるという点で、
青年心理学的視点からすると、非常に有益なことだと言われています。
日常生活において言えないような言葉や感情、そういったものを、
文章というもので固形化することが出来る。
吐き出す事が出来るというのは、非常にすっきりするからです。
けれども、それはあくまで「日記」が紙と鉛筆等で書かれ、
基本的には人の目に触れないところであるというのが大前提です。
そんな、青年心理学という辺境の学問を学んだ事がある人には、
「今更何を」と鼻で笑われそうな文章は恥ずかしいのでここで置いておいて。
文章で何かを表現するというのは非常に難しい事だとかえるは思っています。
事実4年ほど、毎日分文章らしき物体を書いていても、言いたい事は露ほどにも伝えられず、
何度書いても、伝えたい事は空転し、にょろにょろと別の方向へと背を伸ばし、
書いた後に「なんて面白い事に」と愕然としない日々のほうが珍しいほどです。
けれども、割合と使いやすい文章というのも存在すると思っています。
言い切り断定強い言葉で何かの評価を固定化するということ と、
何かを否定する事で、自分の思考立場等をそれよりも上に置く という文章です。
何かに対してまい進した事がある方ならご存知だと思いますが、
まい進している最中は、ともかく「何か」というのが非常に価値あるものだと思いがちです。
事実、それは価値のあるものではあるのですが、
肝心なのは、それが自身にとってなのか、世の中にとってなのか という事を混合しがちであるという事。
価値というものが、上手に回転しているうちは、それは起爆剤にもプライドにも生きる糧にもなりますが、
半歩間違えてしまうと、それの価値を知っている自分というのは非常に偉いものなのだと、
錯覚をしてしまうことすらあるのです。
そうなってくると、大変。
自分は偉いというものの為に、価値や「何か」を使ってしまうようになりますし、
それらを高くしようとする為に、他の何かを否定しようという心が動くようになります。
心が動くようになると、言葉や行動視線の端々からそれらがにじみ出てしまうし、
日常から生まれる言葉の概念や使い方といったものも、それに応じて変わって行ってしまうのです。
人というのは、非常に敏感な生き物です。
立ち居振る舞いだけではなく、文章のちょっとした事からでさえ「ああ、この人はこう思っているのだな」
と気が付いてしまいます。
ほんのちょっとの変化ですら、近寄るのはやめようと思う人や気持ち。
人は、自分が居心地がよい人のところへと寄っていきますし、
居心地が悪くなれば居なくなっていきます。
他者に気持ちをぶつけない。
自分のプライドを他者に見せ付けない。
その為に他のプライドをけなさない。
言葉にするのは非常に簡単な事ですが、実行するには非常に大変なこれらの事。
たかが文章なのですが、それを形作るのは確実にその人自身です。
そう思っているのであれば、もっときちんと生活をしろという苦言は、
今回棚の上で眠ってもらっています。
大口叩いてすみません(べこり。
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